明智光秀の出生地がついに判明
明智光秀の出生地について、滋賀県多賀町中央部の「佐目」と明記した1672(寛文12)年編さんの古文書「江侍聞伝録(ごうじもんでんろく)(禄)」が、県立図書館(大津市)で確認された。
専門家は「成立年代がはっきり分かり、光秀の出生地を記した最も古い史料」と指摘。
明智光秀は佐目が出生地
著者は木村重要(生没年不詳)で、佐目から十数キロ南西部に位置する近江国神崎郡(現在の滋賀県彦根、東近江市辺り)の人物とみられるという。江侍聞伝録は全2冊で、中世の近江国の土豪・地頭の家系を地域ごとに記している。
自筆とみられ、1冊目に、明智十左衛門という侍が濃州(美濃国)から佐目の里に逃れて来て2、3代が住み、出生年は不明ながら「光秀」が生まれたと書かれている。
織田信長を討った本能寺の変(1582年)後、豊臣秀吉と戦った山崎の戦いで多くの近江の人々の加勢を得られた理由については、「江州生国」(近江で生まれた)とする。
出生地を巡っては、佐目の東に位置する美濃国(岐阜県)説がある
光秀の出生地を巡っては、佐目の東に位置する美濃国(岐阜県)説がある。根拠とされ、安土桃山時代に活躍した立入宗継による覚書には、1579(天正7)年6月10日の出来事の一節に「美濃国住人ときの随分衆也 明智十兵衛尉」と記されている。光秀は当時、近江や丹波を拠点としており、「住人」は出身地を意味すると解釈されてきた。
当時の武将は生まれた土地だけでなく、先祖の所領地も出自と位置づけており、近しい人物でない限り、出生地までは知り得なかったという。その上で、「『住人』は、光秀の生まれた地域、光秀の先祖の所領地、土岐氏の所領地のどれを指すのか判然としない」
江侍聞伝録には、光秀の先祖の名は十左衛門という通称名のみ記されている。当時は地位の高い人物でないと、諱(いみな)(元服時の正式な名前)が記録に残らない場合が多かったといい、「編さん時、通称名程度の情報しか伝わっていなかったのはかえってリアリティーがある。美濃出生説を見直す史料として意味がある」